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断片的な視点

いまから100年ほど前の明治中頃。白川村に関する文献が初めて雑誌に掲載されます。

内容の中心となっていたのが、白川村南部の一部に"大家族"制があったことについてです。ここでの"大家族"とは、テレビ番組などで特集される大人数の"核家族"のことではなく、大人数で"肉親、親戚"が同居する家族をさし、時に"40人"ものひとが、ひとつの"合掌造り"に住んでいたそうです。

このような住み方は、大正時代の中頃まで続いたのですが、それは、まずこの場所が、山に囲まれた狭い土地のため、うまく農作物をつくるコトができず、"焼畑農業"に頼っていたこと。

さらに、養蚕のため、家に労働者が"居る"必要があったこと。

などが理由としてあげられます。ちなみに"焼畑農業"とは、森林を伐採後、

乾燥してから焼き払い、その場所で数年間農業を営みます。地力が低下する4,5年後森林に戻し、次の場所に移ります。

20年ほどで一巡して、森を再び伐採して畑にする方法です。。

では、大家族"以外"のひとたちは、どのような仕事をしていたのか。。

職業としては、製材屋、医者、鍛冶屋、きこり、獣医、石職人、大工。。と、様々であったことを文献では紹介しています。

ただ、八百屋、食堂などの"食に伴う職業"が、あげられていないのが不思議な点です。

もしかすると、"焼畑農業"での収穫物を取り扱いまで含めて、大家族制の人たちが行っていたのかもしれませんね。。

そもそも、文献のために、この場所の調査が行われた背景には、知らないこと・分からないことへの探究心があるのだと思いますが、昭和に入ってからも"学者"間では、

  • 大家族制は特に"奇妙なもの"ではない
  • 家長の"権力"が失墜した理由
  • 大家族"そのもの"が消滅した原因

などについて大論争が起こっていたそうです。

昭和の中期頃からは、大家族制から"農業"や"宗教"と。。調査の焦点が"移動"していくことになるのですが、多くの場合、専門分野での研究や調査になるため白川村全体としての生活を"的確"に理解できず、"特異な現象"として、"誤った見方"や"興味本位"に、取り上げることも多かったようです。

このような断片的な内容が、メディアを介して世の中に広がり白川村のヒトたちを不快にさせてしまったこともあったようです。。


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