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【必要の場をツクル設計事務所】-長尾アトリエ の 長尾 です。

合掌造りとブルーノ・タウト

1935年(昭和10年)。ドイツ出身の建築家"ブルーノ・タウト"が、白川村を訪れた際、合掌造り集落を見て、 

「これは、むしろスイスか、もしくはスイスの幻想だ」

と、絶賛しました。

ご存知の方も多いと思いますが、"ブルーノ・タウト(-1938年)"とは、"簡素"さの中に、"美"と"深い精神性"を表した"建築・庭園"として"桂離宮"を世界に広めた建築家です。

では亡くなる直前の昭和初期になぜ、タウトは日本にいたのでしょう?

もともとタウトは、20世紀初頭にドイツで生まれた"表現主義"と呼ばれる芸術運動で活躍していました。

しかしちょうどこの頃、ドイツは、第1次世界大戦(-1918年)で敗戦し、様々な工業製品を作ることで、賠償金を支払っていたのですが、労働者を取り巻く環境は劣悪で、ベルリンの"労働者用住宅"は、まるで"監獄"のようでした。

このときタウトは、住宅供給公社の主任建築家として、労働者の健康を考慮した集合住宅にチカラを入れ、戦後の8年間で、約12000戸の住宅建築に関わることになります。

これをきっかけに1930年、"(現)ベルリン工科大学"の教授に就任します。

戦後の劣悪な環境改善に携わっていたため、終戦と同時期に起こった社会主義国家樹立につながる"ロシア革命"に大変興味があり、就任後すぐに"ソ連"で活動するのですが、思いもよらずソ連の建築界は、柔軟性に乏しく結局一年ほどで、ドイツに帰国することになるのですが。。。

帰国直前に、ドイツでは"ナチス"が、政権を握り、"ソ連の革命主義者"という烙印を押されたタウトは、仕事と地位を奪われ、ドイツに戻って数週間後には、スイスに移住することになったのです。

多分、このときに見た風景が、白川村の風景に重なったのだと思います。

その後、大陸を横断し最後に海路で、日本の福井県に上陸するのですが、その際、日本の国際建築会がタウトを歓迎し、1933年。

そのまま日本に亡命することになったのです。そして、来日の"翌日"には、京都の"桂離宮"へ案内されたのでした。。

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