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【必要の場をツクル設計事務所】-長尾アトリエ の 長尾 です。

観光資源としての御母衣ダム

前回、東洋一のロックフィルダムとされる"御母衣ダム"の着工までの様子を辿ってみましたが、このダム建設に伴い、白川村が観光地としての道を歩み始めることになります。

その理由は、工事に伴う人口の急激な増減です。。

建設前(昭和30年代後半)には、"2000人"ほどの人口でしたが、着工すると一気に、"9000人"を超えるまでに増加します。

これは、工事関係者が現地にバラックを建て、生活をしていたための増加でした。

そして、工事期間は、1957年からの3年間だったにもかかわらず完成が近づくとともに人口が激減し、過疎化が始まります。

そこで、"電源開発(ダム工事)"に代わる産業として、"観光"に目を向けるようになり、さらには、ダム工事に伴い"道路"ができていたため、"観光"への方向転換を決断できたのでした。

最初は、ダムそのものが"観光資源"でした。

建設中からたくさんの見物人が、"爆破作業"を見に訪れていました。

完成後まもなくつくられた"観光ポスター"が"御母衣ダム"であったことからもしばらくの間、ダムそのものが、村の重要な"観光資源"だったことが分かります。

しかし時間の経過とともに、合掌造りの集落が注目され始めると、ダムは、自然破壊の象徴としての"悪者"とされ、観光資源としての魅力を失っていくことになります。

そこで、御母衣ダムの見学施設は、平成13年にそれまでの"ダム展示館"から"御母衣電力館"として再生され、年間10万人あまりの観光客が訪れるまでに回復します。

ダムは、いまも重々しく立派な姿で、膨大な電気を関西に送り続けています。

近くの旅館には、"ダム・ビュー"なる部屋があり、目近に迫るロックフィルダムの存在感は、圧倒的だそうです。

観光地への方向転換は、社会的な必要があったためですが、白川村で良く耳にする"近代化・合掌造り・保存・観光"といったキーワードは、全て、このダム建設から始まったようです。。


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