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【必要の場をツクル設計事務所】-長尾アトリエ の 長尾 です。
白川村の印象の変化
昭和の終わり頃まで、行儀の悪いカタチで、合掌造りが並んでいると紹介されていた"荻町"。
つまり、"例外的"な集落形態ということですが。。何処にでもあるようなモノが、"保存対象"に"なりにくい"ことからも分かるように、典型的な集落とされていた"保木脇"ではなく、この"例外的"な集落形態の街が、"合掌造り集落"の代表となったのは必然だったのです。
少し話は戻りますが、大家族制があった戦前まで"合掌造り"での"日常"は、"奇なるもの"として扱われ、戦後になると、その"奇"なる印象から"生活の厳しさ"という印象に移っていくことになります。
このような"印象の変化"には、ダム建設による街の"水没"。それに伴う"集団離村"などが関わっているのですが、ちょうど、高度成長期に伴う大規模開発により"環境破壊"が、注目されていた時期で、メディアでの報道が"きっかけ"になったようです。
このような印象(操作)を最も分かり易く表現していたのは、当時、300種類も創刊された人気の"写真付き雑誌シリーズ"です。
この中で白川村は、荻町から北へ約20kmほどの場所にある"加須良"という集落として扱われ、「文化とは何か。。生活とは何か。。」「それは"文明"にゆがめられ。」「魅力のない"すり切れた"ものになってしまった。。」といった文章で始まる、"山奥に隔離された原始性と悲愴感"として紹介されます。
さらに、「東京のお客さん、この熊の皮はどうじゃ。」「大負けにして5千両でよか。」といった"偏見"とも取れるような表現で商売の様子を描写しています。
しかし、十数年ほどすると、部落に対する
- 都会人的な"エリート"意識
- 女学生的な"感傷"
として集落のヒトたちから"評"され写真についても「記者は、酷い所ばかり写して行き、苦笑いするしかなかった。」と、本当のことが明かされる結果となりました。
一方、同じ時期に、加須良を"異なる視点"から描いたものもあります。それは、飛騨地方の山間部農村を診療してまわった医師たちの"診療記"で、医師として加須良を訪れたときの人々の歓待。
死亡診断書がなかったため、幾日も葬ることができなかった4歳の女の子のこと。など、実体験による内容を綴ったものでした。
記事の内容は、前記の写真付き雑誌とは比べることはできないですが、ともに、集落の"厳しさ"という視点は、共通していたのです。。
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