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【必要の場をツクル設計事務所】-長尾アトリエ の 長尾 です。

旅の目的

色々な"旅"がありますが、自然の風景を"見る"というのは、いまでも"旅の目的"の中で、上位を占めるそうです。

この"見る"の対象となる"風景"には、これまでに、大きな変化が2回あったとされています。

1度目は、自然風景が"再発見"されていた明治期で、城跡や古墳などの"史跡"や"松島"や"天橋立"のような江戸期以前から"名勝"と呼ばれていた"風景"に加え、日本アルプスのような"雄大で荒々しい自然の風景"までに広がったとされています。

2度目は、昭和40年代以降の"日本の魅力、再発見"をキャッチコピーにもつ「ディスカバージャパンキャンペーン」をキッカケに、(最近では、豪華な列車旅といったカタチで復活しています。)その対象が"自然風景"から"街並み""農村"などの"生活風景"へと変化したと言われています。

このような変化は、世界遺産となった白川村でも起こっていて一般向けのガイドブックで紹介されている見所は、戦前と戦後で大きく変化したそうです。

もともと白川村には、世間から注目される"大家族"という大きな要素があったのですが、それ以外にも多くの"見所"が取り上げられてきました。

例えば、戦前の明治期から今日までのガイドブックで紹介されている白川村の資源は、

  • 名所旧蹟
  • 自然資源
  • その他

の"3種類"に分けることができます。

例えば"名所旧蹟"としては、"帰雲城(かえりくもじょう)"や"嘉念坊(かねんぼう)道場跡"などがあります。

ちなみに"帰雲城"とは、八代将軍"足利義政"の命により白川郷征服の拠点としてまず、1460年に高山市荘川町牧戸に城が築かれます。

その4年後、北へ進出するために"帰雲"に築かれ、4代にわたり、120年間も栄えることになった"城"のことをさします。

しかし、120年間の終りは、東海・北陸・近畿の広い地域を襲った巨大地震によるものでした。

地震により隣接する山が大崩落を起こし、これによって、帰雲城をはじめ、城下300件、推定500人、牛馬までもがことごとく埋没してしまったとされ、皮肉にも、この一連の出来事により、白川村の"歴史"が"旅の見所"として、脚光を浴びるキッカケとなったのでした。


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