いつもありがとうございます。【必要の場をツクル設計事務所】-長尾アトリエ の 長尾 です

観光という視点

平成が始まる頃、色々な理由によって町並み保存に対する視野が広がり始めます。

それは、単純に建物"単体"を観賞用として"現状維持"することから地域"全体"を観光資源として"活用"しながら保存する。

といった、生活様式まで含め、価値を見出そうという試みに思えます。

そもそも、観光地としての白川郷の物語は、東洋一のロックフィルダムである御母衣ダム建設から始まります。

その昭和32-36年の"建設時"には、"すごい工事をしている"とのことで、観光客が激増したのですが、白川郷"内部"のひとたちは、どのように見ていたのでしょうか?

そこで参考となるのが、村発行の"広報誌の年頭あいさつ"です。

どの市町村でもここには、"前年のまとめ"と"新年の抱負"が、かなり具体的に書かれるので、村が目指している"方向"を理解するには、とても役立ちます。

村では、ダム建設が終了した昭和40年以降、"観光客"が一斉にいなくなり、そこで初めて、"観光地"としての"視点"を持ち始めます。

昭和40年中頃までの"年頭あいさつ"では、具体的な"観光資源整備"についてもふれていたのですが。。

あくまで、「農産物と観光と両々あいまった豊かな村」。。

つまり、農業と観光が"持ちつ持たれつ"の関係としての視点に、揺るぎは無かったのです。

それが昭和40年中頃以降になると、「観光と農業の村づくり」。。と、観光が前に押し出されるようになります。

ちょうど、視点の変化が表に出始めたこの頃、遠山家が"民族館"として再生されたり、大白川から湯を引いた"平瀬温泉"なども完成していたのですが、

これらはむしろ"後発的な整備"で、直接の引き金は、やはり、"御母衣ダムの完成"と"白山の国立公園指定"による、観光客の"激増と激減"から"学んだこと"のようです。

さらにその後も、後発的に"観光資源の整備"が進行し、テレビや映画のロケなどにより、内外に白川村が認識されることになり、農業第一主義からの脱却に成功したのでした。


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