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【必要の場をツクル設計事務所】-長尾アトリエ の 長尾 です。
マタダテ論争
昭和18年に発見された"登呂遺跡"は、建築史家などの「古代住居の起源は"円形"である。」との推測を元に復元されています。
しかし、合掌造りの屋根部分のみ(横から見ると三角形)が、地面から建ち上がっている"股建(マタダテ)"が、原始時代からの住居だと言われれば、そんな気もします。
マタダテが起源であると信じ、そこに"古代の遺風"を見つけようと、調査が始まり、初めて"マタダテ"の記述が、雑誌に掲載されたのは、明治時代後半のことです。
建築専門の分野では、大正時代後半に"論文"により発表され、"山小屋式の家"として説明されます。
この"論文"の中では、マタダテが、「古代住居の起源」とまでは、たどり着いて"いない"のですが、現在の"合掌造り"の"原型"であると推測され、
さらに徳島県祖谷地方にある"平家落人の里"にある家の間取りに似ていることから、白川村は、"平氏の落ち武者の村"だとも推測されています。
一方で当時、古代住居の起源とされていた"天地根元宮造り"とは、見た目は良く似ているが、構造が異なるため、"マタダテ"≠"天地根元宮造り"と言い切っています。
このように、様々な推測のもと、その後も
- 古代住居の起源
- マタダテ
- 天地根元宮造り
の三つの関係は、様々な立場のヒトたちにより、常に論争が繰り返されてきました。
例えば、ある専門家によると、日本の初期の"住宅"や"神殿"の形式を"転地根元宮造り"と断定しているのですが、その理由として五箇山や白川村の"マタダテ"をあげていて"マタダテ"="天地根元宮造り"としています。
一方白川村では、明治期と大正期の2回、大火災が起きており、その際、一週間たらずで、数棟の"マタダテ"が建てられ、かなり長期間、被災者がそこに住んでいたことがあります。
このような事実をふまえ、古代住居の起源ではなく、本来の"マタダテ"は、合掌材を土に埋め込む"掘っ立て式"であった。とする意見などもありました。
その後は、見物人が珍しそうに見に来るので普通の家に改造してしまうヒトも増えてしまい、昭和30年ころには、それまでの"マタダテ"論争が整理され、これを最後に"マタダテ"研究は見られなくなりました。
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