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【必要の場をツクル設計事務所】-長尾アトリエ の 長尾 です。
製糸場の近代化
開国後、日本の重要な輸出品となっていた"絹"。
しかし、乱世や蚕の病気に伴う、急激な需要の増加は"品質の低下"につながり、国際的な評価のを落とすことになってしまいます。
状況を打破すべく、フランス人生糸技術者たちによる製糸場建設のために"資金提供"の申し出などがあり、明治政府は、決断を迫られます。
そしてついに、1870年。"官営"での"製糸工場"の建設が決定します。
同時に政府は、"技術革新"を視野にいれた"器械の導入"も推奨していたため、同年、日本初となる前橋藩による"藩営"での、"器械(イタリア製)製糸工場"の設立に、つながることにもなりました。
官営工場の"建設"決定後、大隈重信、伊藤博文らが中心となり、工場の"責任者"を探していたところ、後に、その見識の深さから"生糸の神様"と呼ばれることとなる"ポール・ブリューナ氏"にたどり着くのです。
ブリューナ氏は、同年6月の雇用"仮契約"後すぐに、製糸場"建設予定地"の選定のため長野県、群馬県、埼玉県などを"視察"します。
そして、同年10月の"正式な雇用契約"の3日後には、富岡を建設地とすることを"最終決定"していました。
決定の理由は、
- 養蚕業が盛んな地域で繭の調達がしやすい。
- 土質が悪く、農業には不向きな土地。
- 水・石炭など、製糸に必要な資源の調達が可能。
そして、
- 全町民の建設への同意
など、様々な条件が一致したからです。
2年後の1872年には、富岡製糸場が誕生し、国中の"製糸場の近代化"に貢献していくこととなります。
さらに、日本独自の"技術革新"も起こり、繭の"大量生産"にも成功します。
その結果 20世紀初頭には、世界中に"安価で良質な絹"を輸出できるようになり、高級繊維の絹をより身近な存在としました。
さらに戦後、オートメーション化にも成功し、自動繰糸機は全世界に輸出され、絹の"大衆化"に貢献することとなったのです。
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