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【必要の場をツクル設計事務所】-長尾アトリエ の 長尾 。
製糸工場建設まで
弥生時代には、中国から"絹の製法"は伝わっていました。
平安時代(800年-1000年頃)になると、高度な織物技術が普及し高級織物に従事する公的機関"織部司"による独占も薄れていきます。
その後、乱世による絹生産"衰退"も手伝い、日本の上流階級は、"中国絹"を珍重するようになるのですが、鎌倉・室町時代(1300年頃~)頃、中国(明)側から、"絹貿易を禁止"されてしまいます。
それでも、江戸時代(1600年頃~)の"鎖国"期間ですら中国と日本の商人には、特別な"卸売権・輸入権"が与えられ、西陣など高級な織物にも"中国絹"が使われました。。
そこで、国産品を復活させるべく幕府は、蚕の産地である、
- 旧結城藩領(現茨城県結城市)
- 陸奥国伊達郡(現福島県伊達郡)
に拠点を設けて独占販売を試みる。。
一方で、幕府の圧力にも負けず、各地方藩が、絹織物産業に力を入れたため、全国に、絹織物の産地が生まれることとなります。
そのため、江戸時代中期頃には、中国製と遜色がなくなり、さらに、
- 蚕の病気による、欧州養蚕業の"壊滅"
- 内乱による中国(清)の輸出"衰退"
なども手伝い、開国後、絹が"日本の重要な輸出品"となっていました。。
しかし、急激な需要の増加に"品質を保つことができず"、日本の生糸は、国際的評価のを落とすこととなってしまいます。
この状況をなんとかしなければという思いから。。明治政府に、フランス人生糸技術者たちが"製糸場"建設のための資金提供の申し出を行い、これがきっかけで、建設が実現に向かうこととなるのです。
その後検討を重ね、政府内では外資を入れず、国策として技術改革を含めた"製糸工場"を建設すべきという意見が持ち上がり、1870年。製糸の"官営工場"建設が決定することになります。
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