水の都、アムステルダム

いつもありがとうございます。

【必要の場をツクル設計事務所】-長尾アトリエ の 長尾 です。

多くの移民・文化を受け入れ、

「アンネの日記」でも知られる"自由で寛容"な都市、

オランダ首都の"アムステルダム"。

かつて、

小さな漁村だったこの街が、

2010年。

世界遺産となりました。

その理由として、

この街がとても"寛容的"であり、

そして、オランダ人が、

その"寛容さ"に"誇り"をもっているコトと、

市の担当者は、説明しています。

"寛容さ"と"世界遺産"。。。??

よく分からないので、

歴史を少し眺めてみます。

水の都"アムステルダム"。

この場所を形成している"運河"は、

街の象徴であり、文化・歴史的にとても価値があります。

街を"形成する運河"にまつわる"最初の出来事"は、

まだ、

小さな漁村だった13世紀。

街の中心を流れる"アムステル川"を

せき止めるための"ダム"を

設置するコトから始まります。

"アムステル"川 + せき止める"ダム"="アムステルダム"

ですね。

このダムの設置後、16世紀になると、

小さな漁村から海運貿易の拠点としての

経済発展を始めます。

その背景には、

ネーデルラント(いまのオランダやベルギー、ルクセンブルグなど)を

支配していたスペインに対する反乱、

八十年戦争(オランダ独立戦争)

があります。

この戦争で、

アムステルダム(オランダ)は、独立に成功しましたが、

1585年。

バルト海交易を支配していた、ネーデルラントのひとつである

アントウェルペンが、

スペインに降伏してしまいます。

ちなみに"バルト海"とは、北欧の地中海の一部。

大体、

フィンランドやドイツなどに囲まれている所です。

バルト海に面するエストニア出身で、

元関取、今格闘家の

把瑠都(バルト)の名前由来もここからです。

降伏後、

アントウェルペンの"商人"が

アムステルダムへと続々と移住し始め、

結果、

それまでアントウェルペンが支配していた

バルト海、地中海、新大陸、アジア交易を

一手に獲得することとなったのです。

これらの出来事によって、

アムステルダムは、

世界商業・金融の中心地へと発展していくことになりました。

。。つづく。