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家康以前はどんな場所

当時の江戸湊(東京湾)は、貿易港だった大阪湾とは違って、沖まで水が浅く、船が接岸できるかさえ分からない場所でした。

家康が江戸を開拓する17世紀になるまで、手付かずだったということは、開発できない広く厄介な土地だったということです。

このことにより一見、江戸の開拓を機に、土木技術が向上したのだと思われがちですが、実際はその時すでに、技術は成熟していて、開拓はその技術の腕の見せ所だったようです。

これは、江戸時代の約100年前に始まった戦国時代に、日本の土木技術は飛躍的に向上していることからも想像できます。

この時代、兵が食べる米が必要で、米を作るには田んぼが要り、そのためには、周囲を洪水にしないように、必要な時に必要な量の水の確保が必要で、水路をコントロールできるようにしなければなりませんでした。

このため、各藩での治水の技術はとても発達しました。

武田信玄

特に、甲斐(山梨)の武田信玄は、優れた治水技術を持っていました。

盆地である甲斐に注ぐ3つの川は急流にも関わらず、ここに穀倉地帯を築いています。

家康の土木担当だった三河出身の伊奈忠次は、一向一揆が起きたときに父親が家康に刃向かったため、親子共々領外に追放され、甲斐にいました。

後に、家康がふたたび忠次を家臣にしたのは、甲斐で学んだ治水技術への期待があったのかもしれません。

インフラ整備

また、江戸が約250年間と長く繁栄したのは、インフラ整備に関係があると考えられています。

現在の東京都の西に位置する井の頭から飲み水を引いてくることは、東京湾に向かう利根川を銚子方向へ曲げることよりは難しくありませんでした。

これは、井の頭周辺では、汚染されにくい地下水が豊富にあり、地理的にも平坦で水路が掘りやすかったことが要因として考えられます。

この時、上水道の整備と同時に、システムを整理したこと、つまり井戸の使用料を大家さんに払うといった水道料金システムを構築して、上水の維持管理費として使えるようにしました。

江戸では、このような仕組みづくりが上手になされたため人が集まりやすかったのです。

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