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麓(ふもと)集落

日本の原風景の一つで、山のふもとに田畑や屋敷林が広がり、その隙間から茅葺きや瓦葺きの屋根が見え隠れする風景があります。

一般的には、山裾の風景と捉えられますが、鹿児島では、薩摩藩が治めた集落のことも麓(ふもと)と呼んでいます。

集落が麓と呼ばれる経緯

この鹿児島付近は、16世紀前半までの戦国時代に島津氏一族が勢力を広げ、地方豪族などとの争いを頻繁に起こしていた場所です。

戦国大名のひとり、島津16代当主の島津義久が、この場所を制圧した後、九州全域の制圧を試みるも豊臣秀吉に降伏し、多くの武将を引き連れて、もとの鹿児島付近に押し戻されてしまいます。

これをきっかけに、外城制度のもと鹿児島周辺の各地に土地の管理者を配置することで、領内に半士半農の武士が居住し、有事に戦闘員となる役割を担うことになったのです。

この武士集団が、外城制度の区域内に複数あった山城を拠点とし、その山裾に住んでいたことから麓(ふもと)集落と呼ばれるようになったのです。

薩摩藩

さらに、江戸幕府を開くきっかけとなった関ヶ原の戦い後、徳川家から島津が薩摩周辺の地域を与えられ、領国が安定し、現在の麓(ふもと)集落のような景観が形成されていったと考えられています。

1700年代半ばには、薩摩藩の麓(ふもと)の数は100を超え、外城を「郷」と改め統治します。

薩摩藩は、加賀百万石につぐ雄藩として、77万石ともいわれていますが、これは脱穀前の籾(もみ)高で、石高に計算すれば37万石ほどになり、それほど裕福という訳ではなかったようです。

藩人口の約4分の1が士族であったため財政面は苦しく、麓(ふもと)の武士は、郷士として、平時には、農耕によって生計を立てていたのでした。

各麓(ふもと)には、「野町」とよばれる商人居住地があり、海岸の港には、漁師や船頭の住む「浦町」もありました。

また、農民居住地として「在」も点在していました。

その後、麓(ふもと)の移設や新設により、明治時代に入ると鹿児島県内に100カ所えを超える麓集落が配置されたのですが、時代背景の影響もあり、熊本以北の街なみとは異なる、特徴的な美しい景観が残されているのです。

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