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家康がつくった持続可能な町

1600年代にはいると交通・防衛・政治などの理由で、明確に首都が江戸に定められ、この江戸時代は、1800年代中期までの約250年間つづくこととなります。

水浸しで低湿地の広大な場所へ首都を移し、現在の首都東京の礎を築いた徳川家康。

この場所で、利根川の水路変更、金貨造幣、水道整備、江戸城の石垣造成、天守閣の建築など、いわゆる公共事業をおこなったため都市計画の優秀なプロデューサーとして、描かれることもあります。

そもそも、豊臣秀吉が政権を安定させるために、ライバルであった家康に関東に行くように命じたのが始まりで、様々な理由によりこの命令を受け入れるのですが、この時、関東の首都だった北条家の小田原ではなく江戸を選びます。

これは、小田原の地侍などによる既得権を嫌がってのことだったのですが、何もなかった江戸で、街をつくると決めた時点で、この場所を大規模に整備する覚悟を決めたのではないかと推測できます。

江戸湊に向かう利根川を鹿島灘へ

利根川は、もともと群馬県にある水源から江戸湊(東京湾)へ向かい江戸の町を横断していたため、たびたび洪水の被害にあっていました。

このため首都が被害にあわないように川を曲げることを決めたのですが、当時、江戸湊に向かっていた利根川を渡良瀬川へと合流させる工事を行い、鹿島灘へと向かう流れに変更するためには、新しい堤防を造る必要がありました。

この事業に着手した時点で家康は50代前後で当時では寿命も近い年頃です。

そんな事業が、自分が生きている間に終わるなどと思えるはずもなく、約250年つづいた江戸時代ですが、恐らく家康はそれ以上に長くつづくと考えていたはずです。

そして、この事業が完成するまでに土木官僚として家康が任命した伊奈家は、結果としてですが、3代に渡り関ることになったのでした。

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